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「大人の身構え」というヨロイ(鎧)を脱ぐ
2012-03-30 Fri 00:02
ラフターヨガのセッションの進行にはいくつかマニュアルがあって、特に初めての参加者がいらっしゃる場合はかなり手順を踏んで説明していくのだが、その中に「4つの要素」というのがある。

でまあ、ご存知の方もあろうが共同主宰する三鷹台ラフターヨガクラブはもとより、早稲田ラフターに客演?したり、何かしらのラフターイヴェントの際には、私がこの部分の説明の担当をするケースが少なくない。


ラフターヨガでは「ユーモアやギャグやコメディなど」人為的に笑わせる要素を抜きでセッションを進行するのが建前であるが、実際にはやはりそういうものがエキササイズの中に入り込んでくる。


そこで「シリウス・マハナンダ」の変てこな個性と表現力が大いに力をはっきするわけざんすね。

さてさて「4つの要素」の一つは、「子供心をよびさますオマジナイ」というもので、セッションの一番最後に

「やったー!やったー!、イェーイ!!」と歓声を上げるアクション・・・・これが一回のエキササイズの終了にもなるわけだ。

それでこの部分を私が解説するときに、

「皆さん、大人になってしまうと喜ぶ時アクションがあんまり出ませんけど、子供はどうでしょう?・・・・子供ってこんな風に喜びを表現しますね」

・・・といって、ここでかなり激しいアクション、飛んだり跳ねたり転がったり手足をバタバタさせたり、もうめちゃくちゃな動きと奇声と笑いをやってみせる。

まあ実際幼稚園から小学校低学年辺りのガキんちょどもは、もうわけのわからない不条理な?アクションで喜びを全身で表現する・・ことは皆さんご存知の通り。


しかし、これをセッション参加者の前で実演すると、初めての方などはかなりびっくりして「ちょっと引いちゃう・・」人もいるわけですな(笑)

まあ確かに51歳の髭オヤジがこんな風なアクションをする・・・というのは特に日本では「世間体の常識外」なのざんすね、

で怪しまれないようにと他のスタッフ達がフォローを入れるのだが、

「シリウスさんは俳優さんなので・・・」

と説明されると「ああ、なるほど」と納得される方が多いのですな。

そして私も「まあ、ここまで皆さんにやってくれ!というわけではなく、子供だった頃を思い出して、喜びを表現する・・ということですね」という風に収めて解説を締めくくるわけなのだ。


しかし、よくよく考えてみると「俳優なので」このアクションが可能・・という説明は正しくはない、もちろん肉体的な制限というのはあるにしても、大人だって「羽目を外して喜ぶ」事が可能なのは、例えばサッカー会場の群集を見れば一目瞭然である。


俳優なので「日常から非日常に一気にスイッチを切り替えて」表現することが可能・・ということに過ぎないのではないだろうか?

「大人としての身構えを解く」

これがポイントなのざんすね・・・もちろん仕事に従事している時はこの「大人としての身構え」は無くてはならぬものである。

しかし1日24時間年中無休で「大人としての身構え」をやっている必要はないのだ、否むしろその「大人としての身構えを解く」事を積極的にやらないと、この現代社会をしたたかに行きぬくことは出来ないのではないか?


今回の公演では、大人になってしまった主人公が、ふと子供の世界に戻る・・・というようなシーンがあって、ここも我々サブ・パフォーマーの登場シーンの一つである。

我々8人も楽しい音楽に乗って突然場面に登場してきて、それぞれが実際に子供の頃の楽しかった思い出(特に「遊び」の)をモチーフにしたアクションで舞台を駆け巡る・・・おそらく照明もこのシーンではとてもカラフルで派手な演出がつけられることだろう。

・・・・あたかもまるでびっくり箱を開けた様な、おもちゃ箱をひっくり返したような、遊園地に来ているような、大変ハッピーな賑わいに満ちたシーンになることだろう!!・・・やる側にとっては運動量が激しくて一番大変なシーンであるのだが(笑)


そしてTAICHI-KIKAKUの身体詩劇というのは是非とも、「大人としての身構え」を解いてご覧になっていただきたい・・・というか、そうしないと何がなんだかよく分からないだろうしねえ、これはラフターヨガとも共通するのだが、

「40代~50代の男性」諸君というのが、もっともこの「大人の身構え」というヨロイ(鎧)にがんじがらめにされているのざんすよん!!

ここから脱出することが実は疲弊した現代社会の枠組みを超えて、新たなる地平を拓いていくことに繋がっていくのではないだろうか?


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家督相続?と子供の頃の写真
2012-03-23 Fri 14:25
さて本日は誕生日である。今年で51歳ですな。

昨日から浜松帰省中・・・18切符利用であり、宿泊は昨日は母の居住する施設のゲストルームだが、今日は市内のビジネスホテルに移る・・・というのも、毎回のことであるが、帰省すると高校時代からの付き合いの親友たちと晩飯を一緒に食べよう(ほとんどはうなぎだ!)ということだが、

母のいる施設は門限があって、それまでに帰り着こうとすると食事会の時間があんまり十分に取れない・・・ということもあって、今回からホテル泊としたのだ。


探してみたらなんと「誕生日割引1000円ポッキリ!」という宿があって、これを使わない手はない、因みにここは駅から離れてはいるのだが、我々が卒業した高校の近所で当時から知っている・・・ってことはそれだけ古いわけだが(爆)↓

http://www.bijitel.jp/

夜はもちろんうなぎざんすね!!・・・昨今うなぎのお値段がべらぼうに高騰しているのでこんな機会がなきゃ到底食べられないからねえ。


さてさて帰省の最大の目的はなんとも忸怩たるものがあるが「金策」である・・・要するに「親の脛をかじる」悪徳中年なのですな。(爆)

・・・もっともうちの場合、兄弟がいないから相続人は私一人だから問題はない。

税金を取られるくらいなら出来るだけ早い段階で「資産移動」した方がよいということもあって、まあいうなれば本質的には「生前贈与」に近い・・・という名目でこれまでも随分たかってしまったねえ。



しかし母親は今年79歳、あちこちヨタヨタしてきた。

頭は呆けてはいないが、昔に比べると各種「事務手続き」がおっくうで面倒くさくなってきているらしい。年金今回も年金関係の書類が来ていたのを、実質的に私が事務処理する形になった。

若い頃にかけていた厚生年金の記載漏れがあったそうで、申請すればどうやら支給年額が約10万円アップするばかりか、どうやら訂正前の差額を遡って支給される・・・らしい、うまくすると結構な金額ざんすからね。


私も51歳になって、まあそろそろ世間で言うところの「家督を継ぐ」時期になってきた・・ということもある。

でまあ、来年母が80歳になる・・辺りを目処に、財産管理全般を私が引き継ぐ・・・という前提に、例えば「Xデー」の際のマニュアルも順次決めていこうということでもある。


もうひとつの目的としては、こちらに保管してある私の「子供時代~青年時代」の写真のいくつかを持ち帰る・・・ということでもある。今度の公演のモチーフのひとつに

「子供時代の天真爛漫さ」

というのがあって(公演チラシおよび劇中使用映像にオーハシさん&モリムラさんの「子供時代の写真」が使用されている)、まあ役作りというには大げさであるが、子供時代の思い出を出来るだけ鮮やかに回想するツールのひとつとして写真を回収してこよう・・と考えていたのだ。


改めてあれこれアルバムを見ていくとなかなか面白いねえ!!

父親の若かりし頃の写真なんてのもあって、それに髭を生やしたらやはり自分そっくりだったりする。


面白そうな写真がいくつかあったので持ち帰ることにするが、いくつかは後日皆様にも公開する予定なのでお楽しみに!!??

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ロープと「神の手」
2012-03-19 Mon 22:30
さてさて、今回の我々サブパフォーマーが出演するシーンは全部で3つ。

どれも歩く・走る動きがメインなのだが、前回の日記で書いたのとは別に「巨大な力によって無理やり歩かされる」というシーンがある。


おそらくここは大変インパクトの強い、そして現代社会によって過剰に抑圧されている我々の苦しみを端的に象徴したシーンであろう。

我々8人が実際に自分の首に太いロープを巻きつけて搭乗し、それらに強圧的に引っ張れるのに対抗しながら歩く・・・やがては「何者か」にぐいぐい首吊りのようにひっぱれたり、あるいはそのロープが鞭のように威嚇的な音を立てて床を打撃し、怯える我々・・・

というような感じだ。何というか演じていて現実の自分たちの生きている社会の抑圧ぶりをリアルに感じざるを得ない。

誰しも子供時代には何かしらの夢とかヴィジョンに満ち溢れていて、「大人になる」ということはすなわちその「夢やヴィジョン」を実現しようとして生きている・・・ことだと思っていたはずなのに、

さてさて大概の場合は大人になって生きていく生活のリアルとは、

「自分の好きなこと・やりたいこと」を目指せば目指すほど、それがユニークなものであればあるほど凄まじい圧力に阻まれる。日本においては特にそれは「世間体という名の和の強制力」であることはいうまでもあるまい。


「個人が自由であること・そのユニークさを思う存分発揮して創造的に生きていく」

・・学校やら会社やらでそういう理念を持った人間をある種の理想像と掲げている例はかなり多いと思うが、いざ実際に本気でこの「個人が自由であること・そのユニークさを思う存分発揮して創造的に生きていく」ことを実践しようとしたらどうなるか?・・・これは皆様もよくよくご存知のことであろう。


今回共演するサブパフォーマーのうち数名が先日専門学校を卒業したばかりの若者である。

専門学校といっても演劇科だから、卒業すると言うことは同時にこれまでの自分の背景から離脱しなくてはならない・・しかも何ら具体的な「社会的所属先」無しに・・・ざんすね。

俳優なんてのはかっては「河原乞食」と呼ばれた卑しい身分なのである・・・それを選び取って生きて行こうというからには、「堅気の生き方」に背を向ける覚悟が必要だ、当面は派遣やアルバイトで食いつなぎながら何とか「演劇」に携わることで「俳優であること」のアイデンティティを死守していく・・というハードな状況を生きて行かねばならない。



・・・しかし昨今の制度疲弊した日本社会にあっては、むしろ「自分のやりたいことをメイン」に生きる為に・・という大義名分があるだけ我々のような「非・堅気」な生き方の方が健全なのではないか?などと思ったりする。

我々のような「生き方」は昔も今も変わらない・・・最初から「社会的信用」などとは無縁だし、生活が苦しいのはあまりにも当然ざんすからね(笑)


我々を抑圧しようという巨大な力・・・それは必ずしも具体的な権力機構だけとは限らない。

このシーンでオーハシさんは猿の仮面を被ってパソコンを操作する・・・という演技をやっているのだが、案外「情報の洪水」が、目に見えぬ内面の管理機構を形成し、想念のエネルギーがそれを肥大化させていく・・というのがこの巨大な力の正体なのではないだろうか?


演技として表現の必要上、我々は実際には自分の手で「首に巻いたロープを引っ張って」、身体の方はそれに抗うような動きで衝突させながら、あたかも「見えない強制力」に抵抗しながら動いていく演技をやっているわけだが、

考えようによっては、自分自身が強固に形成したエゴがその「見えない強制力」の正体だ・・ということを象徴的に表現しているようにも感じられる。

もちろん「自分の好きなことをやる」のもエゴなわけで、実は単に同士討ちをやっているのかもしれない・・・というのが霊性的な見解かもしれないざんすねえ(笑)



よく世間では「呪縛から解放されて自由になる」ことを、「頚木から放たれる」と表現したりする・・・因みに頚木とは「車の轅(ながえ)の前端に渡して、牛馬の頸の後ろにかける横木」・・・日本では現物には中々お目にかからないが皆さんもご存知だろう、馬車・牛車の車体と動力を提供する牛馬を結合するパーツですな。

ところで「ヨーガ」という言葉は「結びつける」という意味があるのだが、語源的には正しく「頚木に結びつける」なのだ!!


ヨーガとは最終的な方向性としては、「絶対的平安の確立」を目指すものであるが、この「絶対的平安」こそは「精神的な絶対的自由」でもあるわけで、何ものを持ってしてもそれを侵すことは出来ない・・・何故なら全て被造物は「存在の根底・・まあ敢えて言葉を使えば神とか真我とかになる」から、来るものであり

犯すものそれ自体も本質的には同じ出所なのだ・・・

ああいや、何と言えばよいかな?・・・「自由」と「束縛」という二元性を超越したレベルに在る・・事が出来たとしたらそこにはいかなる苦悩もないことになる。


一応そこを目指すのが「霊性の道を歩む者」の本分ざんすからね。


「アルナーチャラにひとたび捉えられた者は虎の口にかかった獲物の如く、決して逃げ去ることは出来ない」

と言われたりする。

またラマナがアルナーチャラを讃えて書いた詩の一節には、

「ハートの中で汝に瞑想するもののエゴを根こそぎにする、おお、アルナーチャラよ!」

という有名なものがあり、これは曲がついて歌われラマナアシュラムのテーマソング的存在である。


さよう、もう一つまったく別の種類の「見えざる巨大な力」というものがあるのだ。

それは「存在すること」の恩寵が、運命として身体的存在に働きかける力ざんすね。

こちらの方はそれが一見どんなに理不尽・不合理で、受け入れがたいと感じるものであれ、それに抗ってはならない。

それが拘束しようというのはエゴそのものであり、エゴがその機能を止めたとき(一時的であったとしても)そこに残るのは「至福」である。

こういう生き方を「バクティ」と呼ぶのだが、これがもしリアルに感得出来たなら身体を拘束しているように見えるのはロープではなく、「神の手」なのである。

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「それぞれの人生を象徴するような基本的な歩き方」
2012-03-03 Sat 01:09
前回の日記の続きを書く・・・と言いながら時間が空いてしまった。

まあ、毎度のことではあるが実際には「その2」をきっちり例によって長文で仕上げたのだが、いざアップと言う段になってサーバー不調か何かのせいで見事に全文ロスト・・・・わはははははは!!!!!



ということで気を取り直して改めて「その2」ざんす、テーマは

「それぞれの人生を象徴するような基本的な歩き方」

であるが、さあて私の場合それはどういうことになるのだろう?


キャラクター・テーマとしては(モリムラさんの私に対する印象としては)「星に強烈に惹きつけられた男」という感じかな?・・もちろん星とは実際の天体ではなく、ある種の象徴であるのだが・・・・という具合なので、

常に前方斜め上方から「強烈な力に引き寄せられる」歩き方・・・だから敢えて「しっかりした足取り(大地に根差したような)」ではなく、むしろふらついたり、乱れたりがあってもその方がリアルと言うか、実際そういう風にならざるを得なかったりする。

まさしく「地に足が着いてない」ような歩き方ですな・・・・


実際これまでの自分の人生を振り返ると、

具体的なその折々の目標としては散々道草を食いながらも、方向性は確かに迷いなく「星=霊性の顕れとしての力の源」が働きかけてくる方向にぶれずに歩み続けている・・・・

と言っても良いだろうと思う。


少年時代からそういう力に引き寄せられて、そこをリアルに感じ取れる為のあれやこれやを試行錯誤し続けてきた、いや今もまだ求め続けている渦中にある・・・気がついたら間もなく51歳になりなんとしているわけで、

その遅々たる歩みのもどかしさはまことに情けないと言うか、忸怩たるものがあるざんすよ・・・この年齢になってやってることがニート諸君とあんまり変わらないわけだからねえ(笑)


しかしまあそんなわけなので、このシーンでの実際の演技という点では、他のメンバーに比べるとやはりどこか異質なところもあるように感じられなくもない。

身体詩劇作品自体がスタンダートな演劇とは異なる方法論で表現されていくのだが、私がこの場でやっていることは殆ど「非・演技」と言えなくもないのだ。


身体詩では「存在そのものを演じていく」とでもいうようなアプローチで、舞台に立つ・・・というのが大変重要なポイントであるわけだが、

私の場合その「存在そのものが放つポテンシャル」そのものをおっかけ続けているのが「人生のモチーフ」なので、いわゆるところの一般的な「演技力」なるものを要求されない?のですな・・・

まあ、そういう才能が自分が若かりし頃思い込んだほど「大したものではなかった」と自覚したのが22年前の最初のインドへの旅の成果でもあったわけで・・・・。


そもそも少年の時「演劇の魅力」に取り付かれた・・・という事自体が、その「強烈な力の根源」の最初の顕れだったのだ。

だから私の場合、「舞台に立つ」という事自体が既にその力のフィールドに位相されているのだ。


そして今回の場合はその動きを生起させる「具体的なイメージ」には全く苦労しないざんす。

言うまでもあるまい、私の場合は・・・

「意識は常にアルナーチャラの元にそれ自身として不動である」

のが基本スタンスざんすからね、それに想いを馳せれば自動的に?「強烈な力に引き寄せられる」歩き方になりますわなあ、わははははは・・・!!!


そんなわけなので、このところ稽古の場でアルナーチャラへの想いを意識的に集中増幅させているので、

「やはり今年は11月のディーパム聖火を拝みに行こうかな?」


・・・という気分が次第に高まりつつある今日この頃である。

ここ数日お天気が変てこにころころ変わって、気分的にはいささかゲンナリもしていたのだが(やはり晴れてなくちゃあいけねえ!!・・・雨なんざ大嫌いだあ!!・・・雪なんて論外ざんす、私には「雪景色」が全く似合わないからねえ・・爆)、


先日のマハーシバラトリの日にそれとは知らずにラマナアシュラムに到着して1週間ほど滞在した友人から手紙が送られてきた・・・開封するとラマナのお写真が印刷された絵葉書が同封されていた。


はてさてこれは御山が御呼び下さろうということなのかな?(笑)

加工その2


縮小


加工その4





写真は別の友人が撮影した昨年のディーパム大祭でのあれこれざんす。

「オーヴ」の規模がとてつもないものであることがお分かりであろう。


そのようなラマナ=アルナーチャラの比類なき臨在と恩寵こそが、私にとっての「強烈に魂を惹きつけようとする星=霊性の顕れとしての力の源」そのものなのだ!!

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