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誰も観たことのない未知のアート
2017-06-12 Mon 21:37
さてTAICHI-KIKAKUの本公演後方支援業務は完了した。


「金色の魚」という作品はTAICHI-KIKAKUのレパートリーの中でも特殊な位置にあるのではないか?・・・と思われ、上演回数も他の作品よりもかなり多いように思われる。

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私自身もこの「金色の魚」は複数回を客席で観劇しただけでなく、スタッフとして舞台袖から進行を見守っていたこともあるし、2010年の公演ではサブ・パフォーマーとして舞台上に上がったりもした・・・私自身にとってはこれまでの中途半端な俳優活動の中でも、「マイ・ベスト・アクト」と呼ぶに相応しい出演作・・ともなった作品でもある。↓

http://sirius02.blog6.fc2.com/blog-entry-755.html#more



さて今回の公演ではこれまでとはまた違うインプレッションがあった。


実を言うと俳優たちの立ち振る舞いが、10年前に最初に観たときの印象に比べるとなんだか「おとなしい」というか、彼らから放射されるエネルギッシュなインパクトとでもいうものが減衰している・・・感が否めない。

というのが第1印象だった・・・のだが、よくよく振り返ってみればそれも当然である。最年長のオーハシさんが今年還暦を迎えるのを筆頭に、皆さん50台半ばなのである。

日夜肉体の鍛錬とメンテナンスを欠かさない生活であろうが、それでもやはりこの作品が上演され初めた時代の「彼らが40代の頃の身体状況」と比べたら、「身体能力的な衰え」はどうにもならないものである。


だがしかし一方で、その分演技における「無駄な力み」とでもいうような夾雑物が無くなってすっきりとしたフォルムだけが躍動している・・・とでも言えるような、ある種の「透明感」が以前よりもより説得力を獲得して観る者に浸透してくる・・・ということも確かであろう。



そして普通の演劇公演ならば「同じ作品を演じ続ける」ということは、役者の老齢化によってそのクオリティを維持するという点において、かなり演出的にも工夫を凝らしていかねばならない必要性に迫られることだろうが、

この「金色の魚」では、役者たちが「年齢を重ねていく」といるリアリティが、むしろ作品内容と密接に関連している面白さ・特色があるのだ。


・・・というのも、劇中で使用される映像の数々というのが「過去30年余に渡って、このグループがヨーロッパやアフリカ、アジアなどで公演を重ねてきた」直裁的なリアルな内容の蓄積だからである。

これらの映像の中の「彼ら」はもちろん撮影当時そのままの年齢なわけで、観客としては単に作品としての「虚構の物語」だけではない、彼らのリアルな「旅の歴史」の重み・深さ・・・とでもいうようなものが、ドラマ内容と共振してひしひしと感慨として胸を打つ。



映像の中で「永遠の記憶・記録」として躍動している彼らの「身体」と、今現実に舞台の上で展開している彼らの肉体との対比が、それ自体が強烈なドラマ性を帯びて、作品中の「虚構世界」と重奏・重層的に交錯するスリリングさ・・・があたかも「夢見の世界」のように展開していく。

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このような構成の演劇公演というのは、ある意味で「時の流れを可視化」するアートでもあろう。

(今回の公演でのカーテンコールでは、普段観客の前には登場しない「映像担当」のタブチさん・・使用された映像群の撮影者でもある、も舞台に上がって紹介されていたのが大変印象的でもあった)


さらには谷川賢作氏というビッグネームのアーチストとの舞台上での共演・競演ということも画期的なイベントとして特筆に値するであろう。

http://tanikawakensaku.com/profile/


これもまた昨日今日の出来合いの関係などでは毛頭無く、彼らと谷川氏は長年に渡って親交を重ねてきたわけで、TAICHI-KIKAKUの公演で使用されてきた音楽のうちピアノ独奏曲については、「彼らのために谷川氏が演奏した音源」が使われているのだが、

今回のように谷川氏が同じ舞台上にいて、生で音楽を演奏していく・・・というのは、まさしく「いまそこで生まれつつある」複合アートをリアルタイムで体感していく希有なパフォーマンスであろう。

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こんな風に「時の流れの可視化」と「いまそこで生まれつつある」というものを同じステージ上で、身体を軸として普遍的なアートとして世界中で展開できる・・・という特殊性は、彼らにしか不可能な種類のものであり、TAICHI-KIKAKUというパフォーマンスグループの際だった個性と芸術性であろう。



個人的な想像に過ぎないが、この作品は彼らが70代・80代になっても上演され続ける・・・のではないだろうか?

将来彼らがよぼよぼの爺婆になって、舞台の上では「3人で黙ってお茶を飲んでいるだけ」のような演技?になった・・としても、「役者のリアルな肉体と永遠の時間に刻印された彼らの映像との対比」がもたらす「時の流れの可視化」それ自体がこの作品の肝である・・とするならば、

そのグラデーションの深さが、きっとまだ現時点では「まだ誰も観たことがない」不思議な・未知の・未来のアートとなりうるだろう。



・・・・というわけで長くなったので、今回の公演でもたらされた「インプレッションその2」はまた次回に続くざんす。
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