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「全てを相対化する視点」
2018-07-09 Mon 21:38
ちょっとここ数日大きなニュースが続いているわけだが、私としてはやはり6日の「オウム首謀者たちの死刑執行」について所感を書いておきたいと思う。


あの教団が台頭してきた80年代半ばというのは、私は20代後半でまだインドに出かける以前の頃である。

とりわけ90年2月にオウム真理教が衆議院選挙に大挙して立候補した際には、




私が当時住んでいたアパートは麻原教祖が立候補した選挙区内にあっただけに、街頭での選挙パフォーマンスも直に見ていたし、アパートの郵便受けには毎日のようにチラシが入っていて、私としても「オウム真理教」という存在は以前から大いに「気にかかる」対象であった。



その頃は「演劇青年」だった私だが、30歳という「区切りの年齢」が迫ってくる中で自分自身の方向性と現状の乖離に懊悩して何か「突破口」を求めていただけに、アプローチとしては「自己啓発系そのもの」である彼らのパンフレットの内容はなかなか魅力的に感じたし、セミナーなどに参加してみたい誘惑に駆られたりもした・・のである。


もしあの時「参加」していたらどうなっていたであろうか?

私はかって海上自衛隊の下士官(職業軍人である)であり、潜水艦乗務員という経歴を持っている・・・・ひょっとしたら一連のテロ事件に「加害者」として関わってしまい、今頃は獄中にある・・・ となっていた可能性もあったのかもしれない。


だが結局は一度も関わりを持つことはなかった。

1つには、教団が主催するあれこれのセミナーなどの受講料が「かなり高額なお値段」だったからであり、 そして何よりも麻原教祖の写真にどうしても「品格」というものが全く感じられなかった点であった・・・・。

これは全く根拠のない直感であったのだが、その後インドへ出かけるようになって、インドの諸聖賢たちのお姿に備わっている「品性・品格」というものを知ると、その対比は著しいものとなった。


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まして今更ここで言葉を連ねる必要すらないだろうが、とりわけラマナのご尊顔、特にその「瞳」については、信奉者だけでなく少なからぬ人々がその魅力に惹かれている・・わけでもある。




そして死刑執行の翌日7日という日付は、私にとっては「第1次インド計画」・・・つまり「初めてのインドへの旅」へと成田から飛び立った日なのであった。

・・これはその選挙で彼ら全員が落選して数ヶ月後だったのだが、もう28年前になるのですなあ。


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この旅はインド半年・ネパール3ヶ月・タイ2ヶ月・香港&中国1ヶ月の約1年に及ぶものとなり(帰国日は91年6月20日・・14年後の同日に「刃傷事件」が起きる・・笑)、私の人生に画期的な大転換をもたらすことになったわけで、かくして今年は「第28次インド計画」が控えている次第(笑)。



さてそこで思うのは、当時オウム真理教へ入信した人たちにしても(今回死刑執行された首謀者たちの大半は私と同年配である)、

もしその前に直接インドへ行って、かの地のあまりに多様かつディープなスピリチュアリティの様相に対峙していたら・・・?

また同時に、彼らはクリシュナムリティやラマナという聖賢の存在と教えに出会うチャンスはなかったのか?・・あるいはあってもスルーしてしまったのかなあ?

・・・ということでもある。


80年代始めにラマナ関連書籍は既に「ラマナ・マハリシの教え」と
「南インドの瞑想」そして「秘められたインド」の3冊が出版されていたし、

http://www.geocities.jp/ramana_mahaananda/information/ramana-books.htm


クリシュナムリティの著作はかなりの点数が出版されていた・・わけで、オウム真理教に取り込まれ洗脳される前に、これらの書籍に出会っていたら・大いなる関心を抱いていたならば、随分と違うプロセスとなった・・のではないかなあ?

・・・と思うのである。


というのは私自身にとっても、親が○価△会の信者なのでまあ随分と影響を受けてしまった経緯があり(実際熱心に活動していた時期もある・・)、あそこもやはり「この信仰を捨てると地獄に堕ちる」的なアプローチで、離反を阻止する構造である。

(これ自体は明らかに「脅し」だし「洗脳」なのだが、一般レベルの善良なる信者たちにはそんな意識は毛頭無く、大いに親身になって「地獄に落ちて惨めな人生を送る」ことを「心配」してくれる・・だけに始末が悪いのだが)


子供の頃からこういう「ネガティブ・メッセージ」に晒され続けて成長すると、大人になって教義や組織に反目してもどこかに「離反する恐怖」が残存して、これがかなり心理的に「馬鹿にならない影響」を及ぼし続けるのだが、

私の場合はそれを「完全に払拭」できたのは、クリシュナムリティという巨大な「通過公案」を何とか通り抜けたから・・・である。


そして順番としてはその後に、「ラマナ=アルナーチャラ」の比類無き臨在と恩寵を直接的に(何度も)体験する・・・という僥倖に恵まれ、お気楽脳天気!」というある種の「安心立命」的なところに何とかたどり着いて現在に至る・・わけざんすね。



で、オウム真理教ではことさらに「バクティ」や「カルマ・ヨーガ」が強調されていたわけだが、この

「バクティ」・・・神への完全なる明け渡し、及び「カルマ・ヨーガ」・・「私」なき奉仕の労働

それ自体は「純粋なる宗教的営為」であり、単にカルト集団に限らずあらゆる「宗教」のいわば「必須アイテム」だし、とりわけ「バクティ」とは信仰の中核そのもの・・でもあり、それなくして宗教もその他のスピリチュアルなアプローチも全く無意味であろう。


問題はそれが「神それ自体」からの発動ではなく、神の名を「標榜する(にすぎない)」人間から、彼個人もしくは組織保全の営利のために「強制的に」命令される。


ことによる弊害であり、と同時に信者にとって誠に安易なるアイデンティティと化してしまう・・逆転した状態を生起せしめてしまうわけでもある。


霊性の道において、「私の中身」なんぞ実は全く無意味でありそれを放棄していく・・のが王道なのだが(だから「バクティ」や「カルマ・ヨーガ」に意義が生じる)、えてして

「私はバクタでありカルマヨーギとして霊性の道を歩いている」・・・こと自体がアイデンティティとしての「私の中身」になり、それをエゴとしてますます強化していく・・・・

羽目になることがかなり多い。つまり「評価の対象」になってしまうのですな。

そこには「優劣」の感情も生起してくるし、誰かに(皆に・上長に・グルに・神に・・)認められるかどうか?・・・が関心事項になるわけで、それにあれこれと「心乱されて」しまう日常になってしまったら、どこにも「安心立命」も「救い」も「さとり」もありませんですな(笑)。



そして肝心なことは「バクティ」とは、こちらから仕掛ける?筋合いのものではない・・・のざんすよ。

これは「神そのもの」が、直接的にその臨在と恩寵をこちらのハートに投げ込んでくる!!

という強烈な体験が先にあり、であればこそ広大無辺なる神様へ答礼するには、「自発的に」バクティでありカルマヨーガであり・・という様式にならざるを得ないのである。



しかしまあ、私の場合はそんなご大層なものではなく、単に「霊性の道」に対する希求の度合いというのが、「どこか適当でいいかげん」である(現在も然りだが)ことが大いに幸いしている・・・ということでもある(笑・・いや実際問題として「真剣に悩み突き詰めてしまう真面目なタイプ」ほどカルトや洗脳に嵌り易いターゲットなのである)


これは「全てを相対化」しうる視点とでもいうべきものを、どうやら子供時分から持ち合わせていた・・・ということのようである。


なるほど「神様」当のものそれ自体は絶対的な存在なのだが、神様という「概念」も・それに関わる「私の中身」なんてのも、実は「相対的な虚構(ただし極めてリアルな・・)」なのざんすよ。


このアクロバチックな有様を徹見すると、人生は無責任にお気楽脳天気!な境地で眼前に「新たなる地平」が拓かれてくる・・・のですなあ。


ということで、確かに私はあくまで結果的に「ラマナ=アルナーチャラ」バクタであり、「畏くも御神意に生かされ在る道具」としての自覚に基づいて「アルナーチャラの宣伝・案内屋」の業務を「カルマ・ヨーガ」として携わっている・・・わけざんすね。


だからそれは「私のアイデンティティ」としての営為ではないのだ!!


では、「私のアイデンティティ」とはいかなるものであろうか?


それは、

「神の庭にて踊る『祝福せし』道化」

なのざんすよん、わはははは・・・・・!!


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